イベント案内

ベルリン・フィル八重奏団より、メッセージとインタビュー

メッセージ (エスコ・ライネ)

親愛なる日本の皆様

 この度、日本での演奏会ツアーを予定通り行えるということを本当に嬉しく思います。

 実はベルリン・フィル八重奏団のオリジナル・メンバーの中で「日本公演に参加しない」という決断を下したメンバーが出た時、ツアーに臨むべきかどうかとても悩みました。
 ベルリン・フィルのリハーサルやコンサートの合間を縫って何度も話合いを重ね、私達は「日本公演を行なわない理由はどこにもない」という結論に至りました。むしろ「行くべき」理由がたくさんありました。私達の演奏を心から喜んでくださる日本の聴衆の皆様、そして日本にある無数の素晴らしいコンサートホール、そのすべてを私達は愛しています。最も重要なことは感傷的な意味ではなく、我々の友人達が今本当に大変な時にあるからこそ、その状況に背中を向けることはしたくないということです。私達は日本に友人や家族がいます。そして私達が来日することを心待ちにしてくださっています。
 このような日本への強い思いから、私達は一部のメンバーを変更し、日本ツアーを行うことを決意致しました。
 バボラーク(ホルン)の代役には、シュテファン・イェジェルスキにすぐに声をかけることを思いつきました。彼はすばらしいホルン奏者でこれまでも我々全員が何度も共演しており、レパートリーを熟知しているだけでなく一緒にいて楽しい音楽家です。当初彼は世界中にTV放送されるヴァルトビューネ・コンサートでベルリン・フィルの1番ホルンを吹くことになっていましたが、私達の思いを受け止め、出演をキャンセルして私達との日本ツアーに参加することを決意してくれました。
 ボガーニ(ファゴット)の代役、ヤッコ・ルオーマは古くからの友人です。私が彼と初めて一緒に演奏したのは20年程前、クーモ室内楽音楽祭のときだと思います。ファゴットをこんなに美しく(そしてこんなに速く)演奏できる者がいるのかと驚嘆した覚えがあります。当時彼はマレク・ヤノフスキ指揮ベルリン放送交響楽団の第1ファゴットとして「ベルリンの人」となり、その後フィンランドへ戻りました。彼もすばらしい演奏家でレパートリーを知っていますし、最も適任だと思います。そして、幸運にも彼のスケジュールは空いていました!
ナストゥリカ(第一ヴァイオリン)の代役を探すのは、正直困難でした。しかしリハーサルの休憩中に、ヴィオラのヴィルフリード・シュトレーレがこういうのです。「いま音楽大学でラティサと話したよ。」と。
ラティサ・ホンダ=ローゼンベルク教授!ベルリン芸術大学のヴィルフリード・シュトレーレの同僚です。彼女のような適任者をなぜ思いつかなかったのでしょう!奇跡的にも何とかスケジュールを調整することができました。
 忙しいメンバー達ですが、リハーサルを含め全てうまくいっています。
この新たなメンバーとともに来日し、ツアーを実現することを私達はとても誇りに思っています。
 日本の聴衆の皆様にお会いできる事を楽しみにしております。

エスコ・ライネ(ベルリン・フィル八重奏団コントラバス奏者)

エスコ・ライネ(ベルリン・フィル八重奏団コントラバス奏者)

インタビュー

ラティツァ・ホンダ=ローゼンベルク
ラティツァ・ホンダ=ローゼンベルク

ホンダ=ローゼンベルクさんとお呼びすればいいのでしょうか。
日本語の性が混じっていますが、日本語は話されるのですか?

 私の父親は九州出身の日本人です。歌の勉強を続けるため、ドイツのデトモルトに留学したところ、そこでクロアチア人のチェリストの母と出会ったのです。子供の頃、父は私によく日本語を教えてくれ、私もよくしゃべったのですが、5歳の時、話し方がすっかり男口調になってしまっているのに気付き、恥ずかしくなってやめてしまいました。父は私が13歳の時に亡くなりました。母は仕事で家計を支えなければならないし、私はプロを目指して頻繁に外出していました。そういう困難な時期、日本の祖父母が頻繁にドイツに来て、本当によく面倒を見てくれました。彼らとのつながりは、私にとって非常に重要でかけがいのないものでした。今でも私の理想の存在です。母はクロアチア出身ですが、ユダヤ人でもあります。母方の祖父は、アウシュヴィッツを生き延びてクロアチアにやって来ました。
 私の出自はこのように複雑で、それもあって6カ国語(クロアチア語、英語、スペイン語、ロシア語、フランス語、ヘブライ語)を話すことができます。時々私は自分がどこに属しているのがわからなくなる時がありますが、日本に来るといつも日本との精神的なつながりを強く感じます(もっとも私の日本語は5歳の時のままですが)。日本の祖母は94歳になりますが、千葉の船橋で今も元気に暮らしています。頭の回転が早く、俳句の名手でもあります。

昨年の来日では、姫路国際音楽祭で樫本大進さんと共演されたそうですね。
 ええ、私と大進とは同じザハール・ブロン門下なのです。彼が9歳の時から知っていて、私の方が年長だったこともあり、彼のお母さんに頼まれて一緒に練習をしたりもしました。連絡が途絶えていた時期もありましたが、不思議な縁で私がフライブルクで教えることになった後、彼はクスマウル氏に学ぶため越して来ました。そして、私がベルリン芸大に移った1年後、今度は彼もベルリンにやって来たのです。彼は子供の頃からある意味全然変わっていませんね。愛すべき子供でしたし、いまも温かい心を持った人。よき友人です。

音楽との出会いはどういうものだったのでしょう?
 父がピアノ、母はチェロを弾いて、家でよく室内楽をやっていました。気付いた時に、私はヴァイオリン奏者の元にいつも足が向いていました。父は、「ヴァイオリンはいい音を出すまでに時間がかかる」というので強く反対していたのですが、私は他の楽器は全く頭にありませんでした。ヴァイオリンを始めたのは4歳の時です。
 私は今、才能に恵まれた子供にも教えています。「将来はひょっとしたら音楽家になるかもしれない。でも数学者になるかもしれない」と言う子もいますが、私にはまったく新しい考えです。私はとにかく最初からプロのヴァイオリニストになることしか考えていませんでしたから。

ティヴォール・ヴァルガ、ザハール・ブロンという
2人の名教師に学ばれていますね。

 はい、ヴァルガ先生には、9歳から19歳までの10年間学び、それは私のもっとも重要な時代でした。もちろん基礎を教え込まれましたが、彼から学んだもっとも大事なことは、音楽への心からの献身です。彼は、当初から私を子供としてではなく、対等な一人の人間として見てくれました。私の父が若くして亡くなったこともあり、父親のような存在でした。その後ブロン先生の元で3年間学びましたが、こちらも非常に重要な時代でした。レッスンはとても厳しく、また集中的で、時に早朝や深夜に及ぶこともありました。彼からは表現の巧みさ、そして規律を学びました。
 2人とも偉大な教師でしたが、教え方や考え方は非常に対照的で、私の中でいくらか混乱がありました。そのため、ブロン先生の元を離れた時、その反動からか、私はちょっとした危機に陥りました。2人の偉大な教師から何を学び、何が欠けていて、自分にとっては何が一番重要なのか、何をどう表現すべきなのか。そのことにじっくり向かい合った上で、2つの大きなコンクールを1人で受けに行きました。その結果、チャイコフスキー・コンクールで2位、ドイツ音楽コンクールで優勝することができました。特に後者の結果は、私にとって非常に重要でした。
 それからは、自分の生徒も持つようになりましたが、私が今に至るまで大事にしているのは、ヴァイオリンという楽器ではなく、音楽そのもの、音楽という神秘、音楽の真実を経験することです。そのためのもっとも素晴らしい機会は、卓越した音楽家と一緒に音楽をすること。他人の意見に耳を傾け、考えを交換し、心を開いた状態にしておくこと、それを学ぶ最高の場が室内楽なのです。ですから、今回ベルリン・フィル八重奏団と共演できるのを大変楽しみにしています。

ベルリンでのリハーサルの様子はいかがでしょう?
 それはもう信じられないぐらい楽しいです。私は紅一点。5日間で全7曲を演奏することになっており、なかなか大変ですが、私はいつも新しい挑戦を楽しんでいます。今日本が大変な状況で、海外の多くの音楽家がキャンセルをしている状況は知っていますし、彼らの心境もよくわかります。しかし、私は今回の出演のお話をヴィオラのシュトレーレさんからいただいた時、自分の中の日本とのつながりを大事にしたいと思いました。
 実は、震災後の間もない中、ドイツにいる音楽家の間でも日本のために何かできないかということになり、facebookの呼びかけもあって、日本人によるオーケストラが結成されることになりました。大植英次さんが指揮をしたシュトゥットガルトでのチャリティーコンサートで、私はソリストとしてメンデルスゾーンのヴァイオリン協奏曲を弾いたのですが、それは私が今まで経験した中で、もっとも美しい種類の音楽でした。1人1人の心がそこにはありました。そんなに多くのお金を日本に送れる訳ではない、でも何かしたい。自分たちができるのは音楽。コンサートの時、絶望と希望が交錯していました。本当に助けたいという思い。溢れて来る涙。普通オーケストラのリハーサルというのは、例えば10時に始まって、13時には家に帰れる、という快適なものですが、あの時は誰もが命を懸けて音楽していました。本当に特別な雰囲気で、私は忘れることができません。この夜、16000ユーロの義援金が集まりました。

日本の皆さんへのメッセージをお願いします。
 私は日本の祖父母とのつながりが深いこともあって、心は全ての点で日本にあります。今回の来日公演で皆さんにお目にかかれるのを楽しみにしています。最後に私の名前のことで少しお話しさせてください。
 プロフィールではラティツァ・ホンダ=ローゼンベルクになっていますが、元々の名前は愛・ラティツァ・ホンダです。子供の時、Aiはドイツ語で「卵」のEiと発音が同じことから、学校で級友にからかわれたことがあり、それ以来クロアチア名の「ラティツァ」に変えたのです。本当にそれだけの理由で、私のもっとも重要な時代に「愛」という名前を使いませんでした。私の家族や親友などは今でも私をAiと呼びます。音楽家のプロフィールで使っている「ラティツァ・ホンダ=ローゼンベルク」には、クロアチア名、日本名、そしてユダヤ人の典型的な名字である「ローゼンベルク」という私の3つの出自が示されていて、これはこれで大事です。ですが、日本で「ラティツァ」と呼ばれるとどうしても違和感を感じてしまいます。日本の皆さんには、ぜひ「愛さん」の方で呼んでいただきたいですね(笑)。
シュテファン・イェジェルスキ

最初に、音楽との出会いをお聞かせください。
 私はボストンで生まれました。母はウィーン出身で、子供の頃、オーストリアの民謡からクラシックまでよく歌ってくれました。父はアメリカ生まれですが、祖父がポーランドのクラクフ出身でした。私の名字がポーランド系なのはそのためです。両親はクラシックからジャズまで音楽をよく聴いており、私は自然と音楽に慣れ親しみました。

ホルンをはじめられたきっかけは何でしたか?
 13歳の時、学校の吹奏楽団でコルネットを吹いたのが最初です。その後トロンボーンに移ったのですが、期待していたほど楽しくなく、トランペットをしばらく吹いていました。15歳の時、金管アンサンブルの指揮者がホルンを募集していて、ホルンという楽器を美しいと思っていた私は、やってみようと応募してみたのです。私はホルンをすっかり気に入り、「もしプロとしてやっていけたらホルンだけ吹いていればいいのか。そうなったら最高だな」と思って、その後クリーヴランド音楽大学に進みました。

クリーヴランドで当時のクリーヴランド管弦楽団の首席ホルン奏者、マイロン・ブルーム氏に師事されたと伺っていますが、師からどのようなことを学ばれましたか?
 ホルンという楽器が特別なのはその音色にある。だから、常に歌うように、そして高貴に響かせなければならないということです。楽器に適した呼吸法も彼から学びました。

その後、ブルーム氏はバレンボイムに請われてパリ管弦楽団に移りましたが、奇しくも同時期、イェジェルスキさんもヨーロッパに渡られたそうですね。
 ドイツのカッセルの歌劇場でソロ・ホルンを吹いていたアメリカ人がミュンヘンに移ることになり、代わりの奏者を探していたところ、共通の知人を通して、「オーディションを受けてみないか」と私のところに話が回って来たのです。幸い私はオーディションに合格し、1976年10月、この歌劇場の首席ホルン奏者になりました。当初は数年でアメリカに戻り、新たにオーケストラの職を探すつもりだったんです。それでピッツバーグ交響楽団に応募したのですが、招待状は届きませんでした。当時の音楽監督だったアンドレ・プレヴィンは、真鍮のホルンでセクションを統一したかったようで、私は当時アメリカのコーン8Dという暗い響きのする洋銀ホルンを吹いていたため、彼の方針と合わなかったのだと後で知りました。その一方で、ベルリン・フィルのオーディションには招待されたのです。同じアメリカの楽器でオーディションに臨んだところ、2週間後に今度はカラヤンの前で吹くように言われました。その後、当時ソロ奏者だったザイフェルト氏に「おめでとう」と声をかけられたのですが、私は「一体何が?」と思ったほどで、結果を聞いた時は喜びと同時に信じられない気持ちでした。1978年の1月、私が23歳の時です。

ベルリン・フィル入団前と入団後でご自身の中で最も変化した点はどこだと思いますか?アメリカとヨーロッパでは音色の嗜好、演奏スタイルに違いがあったと思いますが、どのように対応されたのでしょう?
 カッセルの小さなオーケストラからベルリン・フィルに移って来たのですから、全く別の世界でした。私はクリーヴランド管弦楽団とも演奏したことがあるので、優れたオーケストラがどういうものかはわかっているつもりでした。しかし、カラヤン指揮のベルリン・フィルはやはり特別で、特に弦楽器の音色、ザイフェルト氏とハウプトマン氏の両首席率いるホルン・セクションは絶品でしたね。
 入団後、ザイフェルト氏の勧めもあり、まず私は彼自身使っていたドイツのメルヒオール製のホルンに変え、より明るく輝かしい音色を目指しました。具体的に言いますと、アメリカではF管をメインで使うことを学んでいましたが、ドイツでは軽く、明るい音色のB♭管がより好んで使用されるため、そのコツをつかもうと努力しました。そして極めて小さい音量で吹く技術も学ぶ必要がありました。入団して間もない頃、カラヤン指揮の「ドン・カルロ」の録音で、3番ホルンのソロを吹いたのですが、「ナイン、ナイン!それではあまりに大き過ぎる」と彼からも直接指摘されました。カラヤンは私にとても親切で、良好な関係がずっと続きました。信じられないほど卓越した指揮者でした。

現在使用されている楽器を教えてください。
 8年間メルヒオールを使った後、1~2年ヤマハも吹いていましたが、80年代後半にアレキサンダーの103に切り替えました。いまでは音色の統一が取りやすいということでメンバー全員がアレキサンダーを吹いています。

ホルンという楽器は楽器の選択の段階で、常に"演奏やイントネーションにおける安定性の追求"(=技術革新 フルダブル・ホルン、トリプル・ホルン等)と"音色の純粋性"(=伝統の継承・ウィーン・スタイルのホルンの使用等)において、相反する議論がなされ続けてきた楽器ですが、この点について、どのようなお考えをお持ちでしょうか?
 私の答えは明快です。ホルンでもっとも大事なのは音色で、それこそがホルンという楽器の存在理由だと思っています。われわれがアレキサンダーの楽器を吹くのもその音色ゆえで、もちろん音をしっかり当てなければなりませんが、十分練習すればカバーできる問題です。今アメリカではトリプル・ホルンを使っている奏者が増えていますが、私たちは取り入れませんでした。確かに安定性は増しますが、響きはどうしても損なわれるのではと思います。

ベルリン・フィルが世界最高のオーケストラと言われることに呼応して、そのホルン・セクションも世界最高のホルン・セクションと言われていますが、ベルリン・フィル・ホルンセクションが他のオーケストラのホルン・セクションと際立って異なる点があるとすれば、それはどういう点でしょうか?
 私たちのセクションには国際的なコンクールで優勝した奏者が3人います。この中で演奏するには、他の一流オーケストラでソロ・ホルンを吹けるような実力が必要で、実際そのような経験を経た人ばかりが集まっていますから、ある種のドリームチームと呼べるかもしれません。その名声に恥じないよう私たちも常に努力していますし、それだけでなく新しい曲に取り組むといった挑戦も大事にしています。また、たくさん練習して体力を蓄える必要もあります。例えば今夜のベルクの「3つの管弦楽曲」とマーラーの交響曲第6番というプログラムは、非常にハードで、最初から最後まで吹き切るためには調子が十分によくなければなりません。私たちはオーケストラ以外にも、室内楽やソロ、時にはジャズまで並行して取り組んでいますが、ベルリン・フィルで演奏するということは、実際に必要なレベルよりもさらに上にいなければなりませんから、こういった活動も表現に幅と余裕を持たせる意味で大切です。フリーの日でも夏の休暇でも、私は常に楽器を持って行って、もっとうまくなろうという気持ちで練習をします。特にいまはデジタルコンサートホールを通して、全ての定期公演が世界中で聴かれていますから、恥ずかしい演奏はできません。

30年以上の間、ベルリン・フィルで演奏されてこられた中で、特に強く印象に残っている演奏会をいくつか挙げていただけますか?
 ベルリンの本番でまず私が思い浮かぶのは、バーンスタインがマーラーの交響曲第9番を指揮した演奏会です。通常より多い3回のリハがあり、オーケストラのメンバーはこの曲をそれまでほとんど知らなかったので大変でした。ですが、本当に感動しました。カラヤン指揮のコンサートでは、ブルックナーの生地リンツで演奏した彼の交響曲第4番、素晴らしい歌手を揃えたザルツブルクでの「ドン・カルロ」、ウィーンの楽友協会でのシュトラウスの「英雄の生涯」などが忘れがたいです。カルロス・クライバー指揮のブラームスの交響曲第2番や「魔弾の射手」序曲も強く印象に残っています。もちろんアッバードやラトルとも素晴らしいコンサートをいくつも経験していますが、はるか昔の記憶は依然強いですね。小澤征爾さんともたくさんのいい思い出がありますが、私が一番ホルンを吹いたメシアンの「アッシジの聖フランチェスコ」のコンサートは忘れがたいです。最近では、サー・サイモンの指揮でベルリン・フィルの他のメンバーと吹いたシューマンの「4つのホルンのための協奏曲」が、個人的には特に楽しかったですね。

プロフェッショナルとして演奏活動を続けられる上でその演奏レベルの維持、向上のために気をつけておられることを教えてください。
 音階やスラーの練習だったり、音色や雑音のないアタックの練習だったりという風に、スタンダードな基礎練習です。何か特別なことをしているわけではありません。

イェジェルスキさんは日本にも度々お越しになって、サイトウ・キネン・オーケストラやPMFの教授として活躍されておられますが、日本の印象、日本のホルン演奏に対する印象をお聞かせください。
 サイトウ・キネン・オーケストラや「東京のオペラの森」などで日本のホルン奏者の方々と何度も共演していますが、この30年間で日本のホルン演奏のレベルが格段に上がっているのを感じますし、卓越した奏者を何人も知っています。日本の皆さんは、親切で信頼するに足り、いつも素晴らしいオーガナイズで私たちを迎えてくださいます。今回の震災で困難な時に直面されているにも関わらず、それを乗り越えようとする団結力には驚くばかりです。今海外からの多くの音楽家がキャンセルをしているそうですが、私は日本の皆さんがどれだけ音楽を欲しているのを知っています。少しでも喜んでいただけたらという思いから、今回の出演をお引き受けしようと決めました。

最後に日本の聴衆へのメッセージを頂けますでしょうか。
 ベルリン・フィル八重奏団のツアーでもうすぐ日本に行くのをとても楽しみにしています。皆さんとコンサートでお会いできることを願っています。
ヤッコ・ルオーマ

1973年にフィンランドのロハヤで生まれ、とのことですが、今回のアンサンブルの中で、最も"若い"メンバーになりますね。
日本には何度いらしていますか?また、初来日や、どのような団体で来日されたかお聞かせください。

 今回が4度目になります。一回目が1997年のパリ管木管アンサンブル、次がタピオラ・シンフォニエッタ室内オーケストラ、3回目が、ベルリン放送交響楽団での来日です。

11歳からファゴットを学び始めた、と聞きましたが、その前に音楽との出会いはありましたか?
また、ファゴットとの出会いはどのような出会いでしたか?

 確か、7歳か8歳からピアノを始め、レッスンを受けていました。音楽学校(Music School)ではピアノを習う学生が本当に沢山いたのですが、そこで、フルートを習う友人に出会いました。彼が僕に「ファゴットをやってみたら?」と薦めてくれたので、演奏し始め、しばらくはピアノとファゴットを演奏していたのですが、1つ楽器を選択するとなった時、何の迷いもなくファゴットを選んだのです。

フィンランドには優秀な管楽器奏者がたくさんいますが、あなた方が管楽器にであう機会として、フィンランドはそのような環境(優秀な演奏家を輩出するための優れた、そして熱心な教育システム)があるのでしょうか?
 フィンランドでは、公的な音楽学校があります。通常の教育の他に、放課後に音楽教育を行う場所としてあるのです。1週間に一回、楽器の時間を取っている人もいれば、「音楽理論」「オーケストラ」「室内楽」「ソロ楽器」というように毎日音楽学校に通っている人もいます。また、フィンランドにはどんな小さな町にもオーケストラがあり、木管アンサンブルも多く、演奏会を聴く機会も多いのです。そういう意味で、フィンランドは人口の割には優秀な音楽家が多いともいえますね。

この楽器でプロフェッショナルの音楽家になろう、と決心されたのはいつですか?
 15歳の時、音楽学校の先生の薦めもあり、音楽家への道を決意しました。

ヘルシンキのシベリウス・アカデミーとパリのコンセルヴァトワールで学ばれた、ということですが、元々ヘルシンキではファゴット[Fagotto](=バスーン[Bassoon])を学ばれたかと思いますが、パリでは、ファゴットを学ばれたのでしょうか?またはフレンチ・バスーン(バソン)を学ばれたのでしょうか?
(訳注:ルオーマはパリ音楽院卒業後、パリ管弦楽団で首席ファゴット奏者となり、その後、ベルリン放送交響楽団の首席ファゴット奏者の務めています。)
 仰るとおり、伝統的にはフランスでは「French Basson(バソン)」が演奏されていましたが、数十年前からはフランスでも「German Bassoon(ドイツ式ファゴット)」が演奏されるようになり、パリ音楽院でも2つのクラス(フランス式とドイツ式)が設立されていました。私は、ドイツ式ファゴットを学んだのですが、フランス式のクラスの教授がとても素晴らしい先生でもあり、レッスンを受けたことがあります。また、パリ管では1980年代にフランス式バスーン(バソン)からドイツ式ファゴットに楽器を変えたということもあり、私はパリ管ではドイツ式ファゴットでソロ・ファゴット奏者を務めておりました。

では、ファゴットとバソン両方演奏できるんですか?
 一応、演奏はできますが、フランス式のファゴットはプロのレベルではありません。趣味で練習を続けたいとは思います。

あなたが最も好きな作品はなんですか?
 シューベルトの八重奏曲です。

それはどういう点が好きですか?
 ただただ、素晴らしいです。一時間もある作品で、6楽章から成る作品なのですが、6つの楽章の連鎖というわけではなく、最初から最後までが「一つの旅」という感じでしょうか?うまく言えませんが、シューベルトは断片を1つの大作として捉えているという印象を受けます。

あなたにとって、最も魅力的なファゴットの独奏部分のある、オーケストラ作品を教えていただけますか?
 ショスタコーヴィチの交響曲第9番に5分くらいの大きなソロ・パートがあるのですが、とてもメランコリーで痛々しい感じのところが最後には「幸福感」に向かう感じのところがあるのです。 あとは、ベートーヴェンのヴァイオリン協奏曲の第二楽章とフィナーレにファゴットのソロがあるのですが、そこが一番好きなところです。

今回の来日プログラム
シューベルトの八重奏曲/ベートーヴェンの七重奏曲/ベートーヴェンのピアノと管楽器のための五重奏曲
において、あなたが特に日本の聴衆に聴いてもらいたいところがあるとすれば、それはどこですか?

 難しい質問ですね…。全て素晴らしい作品です。シューベルトの八重奏曲ベートーヴェンの七重奏曲はシューベルトの八重奏曲のモデルになったものですし。ベートーヴェンのピアノと管楽器のための五重奏曲、モーツァルトの五重奏曲も大好きです。
今回のツアーで演奏する曲は全て良いプログラムですね。 したがって、、、簡単に質問にお答えするとすれば、「全曲お薦めです」と答えるべきですね(笑)

古楽器演奏にも取り組まれ、特に木管五重奏団アンサンブル・シュラートのメンバーとして活躍している。という点について
古楽器と木管五重奏が同一の文章の中にあるので、確認したいのですが、この木管五重奏はいわゆる古典派~ロマン派の移行期に、アントワーヌ・ライヒャや、フランツ・ダンツィ等によって確立された、今日の木管五重奏の一般的なアンサンブル形態(Fl.Ob.Cl.Hr.Fg.)を指すのでしょうか?または古楽器による、別の編成の五重奏でしょうか?

 バロック・バズーンは3年前位から演奏を始めました。もちろん、メインは現代ファゴットなのですが。アンサンブル・シュラットでは古楽器を使っています。アントワーヌ・ライヒャやフランツ・ダンツィの作品を中心に演奏しています。アンサンブルも木管フルート、オーボエ・クラシカル、クラリネット、ナチュラルホルン、バロック・ファゴットを使っており、作曲家が意図していた音に近い音色で演奏をしています。五重奏を古楽器ではなく、現代楽器で演奏すると、バランスが不自然になってしまいます。現代楽器の五重奏の場合は、音が硬く、大きくなりがちなので、古楽器での演奏をするようになりました。

ありがとうございました。
最後に日本の聴衆にメッセージをいただけますか。

 今回のツアーに参加できてとても光栄に思います。世界のトップクラスの演奏家達とのアンサンブルに参加できることも大きな喜びです。そして、いつも音楽に対して真摯で、いつも情熱を持って受け入れてくれる日本の観衆の前で演奏できることをとても嬉しく思います。そして、私が今一番力を注いでいる室内楽で、日本に行ける!これは本当に嬉しいことです。皆さんにお会いできるのを楽しみにしております。

<ミニ情報>
ヤッコ・ルオーマは小さい時に柔道を習い、日本の『精神道に』非常に憧れ関心を持っていました。残念ながら楽器を始めるにあたり、怪我の恐れもあって柔道は止めてしまいましたが、近年何かやはり武道を始めたくなり、合気道を始めたそうです。日本の鮨が大好物という、大の"日本通"です!

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